このところ海(または水)を見ることが日常のようになっている。
去年は4月から6月の前半まで、沖縄の八重山諸島をめぐった。
夏から初秋にかけては、故郷の丹後半島にいた。
丹後の海では、久しぶりに素潜りもした。
(国立公園と国定公園の両方にまたがっているビーチからわずか300メートル
という海辺で、私は育った。そしてその海から200メートルも行けば、
京都府下最大の湖もある。少年時代、私はいつも水を見て過ごしたのだ)
11月になるとベトナム縦断の旅に出かけたのだが、
ベトナムでは結局、ハロン湾めぐりに多くの時間を費やした。

この2年間ほどはトラや犬猫などの動物を撮る傍ら、
アジアの「水」の風景にもとり組み、作品化を心がけてきた。
先日『週刊文春』に発表した南インド、ケーララ州の風景を
切りとった「水のケーララ」は、その第一弾だ。
水を見ていると私は落ち着くのだ。
たとえば、動物の写真を撮るときもそうだ。
目の前の被写体が水に入っているとする。
水に遊ぶ動物(海生ではなく陸生の哺乳類の話である)にカメラを向けるとき、
妙に爽快な気分に、私はなれるのだ。
どうして自分は、こんなにも水に惹かれるのだろうか?

その疑問が解けた!
と思えるような本に、最近になって出会った。
その本の存在は以前から知ってはいたが、
読む機会を得ないまま今日にいたっていた。
それが昨年末、ひょんなことから手にすることができた。

『人は海辺で進化した』(エレイン・モーガン著、望月弘子訳、どうぶつ社)である。
クジラやイルカ、ジュゴンやアザラシと同じくわれわれの祖先もまた、
水生生活を送っていた――と著者のエレイン・モーガンはいう。
こんなことを初めて聞くと、驚くべき珍説のようにも思えるが、
ヨーロッパでは、この「アクア説」はひとつの有力な説として
学校の教科書にも紹介されている。

われわれは類人猿とは異なり、毛深くない。
直立二足歩行をし、言葉を話し、涙を流す。
共通の祖先から進化したのに、
われわれはなぜ、チンパンジーやゴリラにはない特質を持つようになったのか?
著者はこう問いかける。
この疑問は、「アクア説」によってほぼ矛盾なく解決する、
と主張する。
従来の「サバンナ説」では矛盾が多すぎるというのだ。

うーん。読んでいくと、すこぶる説得力がある。
目から鱗が落ちる、
というより、話の展開が面白くて、わくわくしてくるのだ。
たとえば、女性の髪の毛が長く伸びるのは、
水中で子育てをしていたときの名残と考えられる――
長い髪は、水の中で赤ん坊がはぐれないようにつかむのに都合がよいのだ、
というくだりには思わずうなってしまった。
ヒトの赤ん坊というのは、プールにいれてやると、
まったく泳ぎを教えなくても自力で泳いでしまうらしい。
水の中にうつぶせにして漬けても平気なのだという。
それが10ヶ月をすぎると、泳ぎを忘れてしまったように水をこわがったりするらしい。

あのぽちゃぽちゃした皮下脂肪は、浮きやすくするために必要だったし、
「呼吸停止」(大泣きをしてひきつけを起こすときに見られる)の習慣も、
水中生活に有利に働いたはずだ、というのだ。
そして二足歩行は、水中生活でこそ可能になったというのである。

とにかくしかし、斬新でユニークな説。
望月女史の翻訳も、読みやすくなかなか格調のある文章になっている。
この本を読むと、なんだか自分自身が「進化してきた」ような気分になる。
そしてこれからも「進化できそうな」気持ちになれるのだ。
不思議な魔力を持った本である。
これで2200円というのは、間違いなく、かなりお買い得。
|