01 竜のすむ島を訪ねて――ハロン湾<1>


カヤックでハロン湾のいくつかの島を巡った後で、
日本の観光ガイドブックに載っていない離島を、私はめざしていた。
ハロンとは、「舞い降りる竜」という意味だ。
舞い降りた竜は生き続けてベトナムを外敵から守る、
そんな伝説が語り継がれてきたのだという。
垂直に切り立つ岩壁が幾重にも重なって、視界を覆いつくす。
オーバーハングした岩が頭上をかすめていく。
巨大な鍾乳洞もここでは珍しい光景ではない。
1600もの小島がこの湾には散らばっている。
かつての海底が、長い年月の間に風や雨に浸食され、この奇観が生まれたのだ。
湾内に浮かぶ岩の島のいくつかには、たとえば「祈る仏」とか「ティーポット」
といった呼び名がつけられている。
途中、ネコのような姿をした奇岩に目が留まる。
その岩に、私は「ネコの横顔」という名前をつけた。

 

まるで水墨画だ

奇岩「ネコの横顔」

まったくこのあたりは、岩と水の迷路だ。
行き交う漁船はまばらだ。観光船は皆無に等しい。
三角形の菅笠をかぶった女たちが、足で櫓をこいでいる。
まるで手のひらのような足裏。器用なものである。
水上には簡素な小屋が建てられていて、ちょっとした集落になっている。
イカやカニ、あるいは石炭といったものを売りながら、水上の村を転々と渡り歩く
「旅人」もいる。

足に注目!!

水上家屋が村をつくる

 

02 犬も歩けば水に落ちる――ハロン湾<2>


湾内に点在する水上家屋で、しばしば目にするのが犬の姿だ。
シーカヤックの船着場になったところに、数頭の犬がいた。
船を降りる。どうやら警戒されているらしい。猛烈な勢いで吠えはじめた1頭の犬。
その動きにあわせるように、犬たちはわさわさと、落ち着きなく動きだす。

魚網が張りめぐらされていて、足場といえば、碁盤の目のような細い木枠だけだ。
すべらないようにと、慎重に歩かなければならない。
しかし、つるっ。ばしゃん!――足をとられたのは、犬のほうだった。
魚網に引っかかりそうになりながら、懸命の「イヌカキ」である。
が、すでに、からめ手のような網目が犬を覆っている。
自力じゃ這い上がれないのかなあ――と、思った矢先だった。
お兄さん(カヤックの管理人)がやってきて、犬に手を差し伸べ、無事救出。
ハロン湾では、犬も歩けば水に落ちる、というわけである。

 

思わぬ災難! 現場に急行したのは、まず周りの犬たちだった。

⇒ほかのベトナム犬の写真、近々Galleryにて公開!!

 

03 豚と草ぶえ――クアンラン島


4日間で4人。滞在中に、クアンラン島で見かけた外国人観光客の数である。
この世界には「地球の歩き方」に載っていない秘境というのは、
まだまだあるのだな、とひとり感慨にふけっているのも束の間――悲痛な絶叫が
私の耳をつんざいた。
声の主は、豚である。これほどまで物悲しい風情で泣かなければならないのは、
よほど切羽詰っているらしい。
実のところ、この島に来るとき、私の乗った船には夥しい数の豚が同乗していた。
数頭ずつ竹カゴに入れられ、デッキに積まれていたのだ(一応シートで覆われて
いたが)。
泣いているのは、あの中にいた豚なのだろうか。
絶叫の理由がわかった。豚の歯(牙というべきか)が折られていたのだ。
ぱちん! ペンチで力任せにやってしまうのだ。
うわっ、これは痛いだろうなあ。


島の北側には3キロも白砂が連なる美しいビーチがあると聞く。
5日目、バイクでそこを目指す。
が、あいにくの曇天。日光浴・海水浴・ビーチで缶ビール片手に読書三昧。
そのいずれも果たせず、砂浜の写真を1枚だけ撮って復路につく。
石灰が散らばった砂地は、独特の景観をつくり出している。
女の子が草むらにしゃがんで、ひとりで草ぶえを吹いていた。 
バイクを止めてカメラを向けると、はにかんだようすで女の子は逃げようとした。
「もう一度、その草ぶえを聴かせてほしいな」
できる限りの笑顔で私はそういった。言葉で、というより身ぶりで。
緑の葉から流れた音色が、風の中でかすかに鳴動した。
あの悲痛な豚の泣き声は、私の耳の底からすでに消えていた。

 

04 ネコとバイク――ハノイ


バイチャイから市バスを使って、ハノイへ。
ハノイでは2日間、街歩きを楽しんだ。夥しい数のバイクである。
信号機がほとんどない路面。そこはバイクでふさがれてしまっている。
10年前に300万台を数えたというベトナムのバイクだが、
今はいったいどのくらい走っているのだろうか。
自動車はあまり多くない。圧倒的に「ホンダ」スーパーカブである。
バイクの洪水をかき分けるようにして、教会通りへ。
通りを歩いていると、ふとネコの視線を感じた。
やはりネコだ。ちょこんと座って、道行く人々を眺めている――でもほんとうは、
ネコは人など見ていないのかもしれない。
ハノイの大通りで、ネコを見かけることはなかった。
うっかり出歩けば、バイクにはねられ確実に轢死してしまうのだ――ネコはそれを
知っているにちがいない。


⇒ベトナムのネコたちの写真は、Galley

 

05 陸のハロン湾――ニンビン


ニンビンへはハノイから南に、バスで2時間も走れば到着する。
ここは海ではなく大地に、岩山が林立している。いわば「陸のハロン湾」だ。
南へと向かう観光客の中には素通りしてしまうものも少なくないが、
郊外に足を運べば、そこには岩山のあいだに田園風景が広がり
水牛がのんびり草を食んでいる。木登りをして遊んでいる子どもたち。
ヤギを追う少年・・・・・・。
ハノイの喧騒とはうってかわり、ベトナム人の純朴な暮らしが、ここにはある。

宿でバイクを借り、古都ホアルーに向かう。
ノーリードの犬がときどき視界に飛び込んでくる。
撮影をしながら、ゆっくりバイクを流していく。
一時間後。私はホアルーにいた。
束の間のあいだ、時間が止まったような奇妙な感覚が、芽生えてきた。
これは「なつかしさ」というものなのだろうか?
ホアルーの全景を、私はどうしても見たくなった。
山の頂上に向かって、歩みをすすめた。
山道の突端までたどり着く。するとさらにその上に――ギザギサの錐状になった
いくつもの石灰岩が、屹立していた。
「ここは登れそうもないな」と、見上げていると、不意にひとりの少年が現れた。
自分がガイド役を買って出る、というのだ。
初級レベル程度なら「岩壁登攀」も経験したことがある私だが、
ここは少年についていくことにした。
少年はなんと――ビーチサンダルを履いている。まだ10歳くらいだろうか。
無数の槍のような石灰岩の群れを、少年がぴょんぴょんと越えていく。
額に汗が滲み出してくるのを感じながら、やっとの思いで私は、少年の後を追う。

陸のハロン湾が、しかしその全景をあらわにするのは、まもなくだろう。
雲の切れ間から、やわらかな陽光がこぼれていた。
この地にも、やはり竜が舞い降りたのだろうか。
ふとそんな思いが、私の頭をかすめていった。


○ハロン湾取材についての掲載誌
『猫びより』2006年5月号/竜がすむ島のネコ
『週刊文春』2006年5月10日号/海と陸のハロン